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photo essay 1

2015/4/10

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photo essay 1

The story of beauty1

写真や撮影に関するマニュアルはない。

写真を楽しむ、好きということでは男女問わず、年齢や経験そしてカメラを専攻の有無など問わない。 life studioだからこそそれぞれの個性そして各自の店舗の文化の一つとして表しでもある。 だがマニュアルがない分、個人や店舗の間の写真そして撮影の雰囲気の差が出てきている。 吉野家の牛丼みたいに同じ味の牛丼がでるように同じ写真を撮ることはできないそして私たちは誰しも望んでいない。私たちみんなが店舗や個人を超えてlife studioで撮影をしている私たちと顧客が思ういい写真という価値を一致していこうとする超越が必要である。 6

年間、数多い撮影をしながら写真について自分の考えが変わったことがある。

私達は写真の話すればはどちらかといえば理性よりも感情で表現されていくことが多いと考えている。

それぞれ持っている素材は多くあるのだがその素材を為には揃った環境がもっとも必要としている。

いい被写体、いい光、いい場所、そこに敵等な場所、そしてその日のコンディションなど。 素材が多い分、偶々いい光を見つけたり、いい瞬間がきたらそれを自分の感覚で収めることは得意である為、色んな表現の写真を残すことはできるのだが上で書いたように環境の変化や自分達の感情によってその日の写真のなみが大きい。

そんな中、75カット写真は偶然的な要素が大きいかった為、毎回顧客に対する気持ちや写真の出来栄えから自分から顧客に対して堂々とできない自分に恥かしさを感じることも少なくない。 一定の動きのリズムの中で一転そのリズムを新しいリズムに切り替えれえる時期は人生では必ずくる。

私達はその基点を分岐点もしくはターニングポイントという。

個人的な話になるが私が写真の概念が変わったのも草加店に入ってからベテラン達が集まっているところで写真部分の担当になったことからである。 担当になることはそこに関して自分の考えや意見、提案を出せるように自分の責任そして論理が明確であり、説得力を持たなければならない。

たとえば写真担当をしているのであれば誰よりも自分の写真より人の写真を見ることも必要であって、その写真のポイントそしてそれをどう主題に作り上げ、何故主題で出してそうして主題をやっていくのかを集中する為に写真を分析することがもっとも必要としている。 そしてまた新しい環境でしかも自分が好きだと思っていた大人の撮影をする.withで私は明らかに自分の限界を知ることになっている。

自分がもっとも必要であることは自分の理性と感性が現れた写真を撮ることでその写真を撮るにはまず今まで自分が撮っていた写真をもう一度見つめなおし、自分の撮影にの態度から言葉、人を思う気持ち表現の方法など見直すことが必要であった。

私たちがよく言っているレパートリーというものは環境の変化で明らかに自分がどれくらいのレパートリーを持っていたのかを知ることができる。

自分な中で装置されていた舞台が壊れてから白紙の状態でも自分で環境と条件を作っていくことが自分のレパートリーである。それは撮影だけでなく私たちの人生おいても適応されるものであるからこそ写真にしろ、仕事にしろ自分のにおいと人生が投影してから自分という存在を自分の中から独立した距離をつくり、自分をもう一度見つめることができるのだ。

今回の.withの撮影の大きなコンセプトは日常である。

自分が一番得意であるから決めたわけではない。 今の自分にそして私達に一番ほしがることであってできてない宿題のようなテーマーでもある。

日常といえばリアリティを浮かぶ。そして生活、自然な表情や目線の雰囲気などその人に寄りそってもっとも自然で当たり前のことを意味する。 スタジオをいう空間を訪れるということは非日常の意味が大きい。だが大きい人生の枠で覗いてみると記念すべき時期が来るとスタジオに行ってその記録を残すことも日常という意味をもっている。

よりリアルに表現したいのであれば被写体が息をして生活をしているその空間に訪れて撮影を行うことがよりリアルであるが.withで話している日常はそのではない。

訪れてくる親子は誰かの親でもあり、子でもあり、恋人でもあり、上司でもあり、後輩でもあり、男であり女である。そしてここで働いている私たちも一人の人として生きている。 人が出会い私たちになるには偶然性から生まれた出会いにしてもその二人が関係をどう作っていきたいのかの意思によって出会いは必然に変化する。そこにはお互いを対象としてではなく人と人としてみる努力がお互い必要となる。

.withの日常というのはあなたの日常の関係(人、物事など)を表現する場所である。 家族にしろ、兄弟にしろ、カップルにしろ、一人の男性、女性にしてもすべての物事と人と関係を持っている。日常の美しいナチュラルな行動、仕草そポーズとして残す為にはまず、 自分の中の日常の意味、大切さ美しさをもう一度考えなくてはならない。

そして相手側の日常と美しさを考えなくてはならない。 よく考えてもう一度思い出してほしい。

今。そばにいる一緒にいることが当たり前な人の何気ない仕草を、、そしてその人を包み込んでいる物、人、そして光を、、、 私達はあんまりにもそこにそれがその誰かが存在するのが当たり前であると考えてその以上もしくはその奥を見逃しているのではないか。

確かに.withという空間は訪れている人々の実際の生活空間ではない。

だけどその空間で私達は働いて、協議して、討論して笑って、泣いて何らかしらの自分達の人生の中で答えを探そうと必死である。それも日常で生活であるに違いない。

そんな空間に偶然に訪れてきた人、一人ひとりとの出会いを必然的な出会いにしていくことそれが.withの日常である。 その為には相手と分かち合い、共に作っていくから相手の心で一秒で安心させる自分だけのコメントやストーリー、接し方など撮影者として一人の人として見つめていかなければならない。

ネタだけがレパートリーではない。 人に対する思い、まず自分の考え方を自分から距離を置くことからはじまる。 各自がその努力ができる一つの方法としてそして.withで変わらない文化としてphto essayが存在しているのだ。

今までの写真分析の文書からもっと自分の感情とそれを表現する為に技術を細かく分析し規定していくことが必要なのだ。 その過程を得て、その瞬間の感情と理性はお互いバランスを保ち、撮影者と自分そして被写体、写真と写真を色んな方向でみることになっていくだろう。。

そしてそれこそが蓄積されて環境の要素に囚われないレパートリーになっていくと考える。 ここまできたらいい写真とはそして写真は感性だけ構成していくものではないのである。

.withのサンプル撮影を何件が行いながら自分の写真について一歩距離をおくことが必要となっている今、サンプル撮影というのは自分が志向しているのが明確であればそして自分の欲が正確にわかることは必ずサンプル撮影で写真を生み出すことになると気づいた。 そして結果を分析し、規定していくことで検証されより普遍で妥当性を取り入れることに繋がる。

自分が追及していこうとする志を信じ、責任や失敗を恐れずに動くことが大事であるのではないかと考える。 ただ雰囲気のいい写真、既存になかった新しい写真だけでなく、欲、感情を論理で説明し証明していくことが自分のレパートリーになり、自分の感性になり、そしてブランドにも繋がるのだろう。

それは環境が与えた偶然的な意味が大きかったかもしれない。 だが行動に移し検証してより普遍妥当な写真そして人生を目指していくその一連のすべてが超越の過程である。 私達の超越は次の超越を向かって走っている。

真のレパートリーは今からである。

 

 

写真はどこまでも真実を守ることで絵画の抽象的とは違った道を進むものである。 段なる写実ではなく、対象をどのように感じどのように強く受け入れるかということだ。 そこに何か本当に作者が戦っている姿がなければならない。

この言葉をもう一度心に刻みながら…

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